2009年04月10日

赤城と太田垣氏(尾道市東則末町・、守護所尾道を守る城)

備陽史探訪:148号」より

田口 義之

赤城跡を望む

赤城跡を望む

備後中世において最も利用された「道」は、大田庄と尾道を結んだ、今の国道184号線のルートではないだろうか…。

中世備後最大の荘園は「大田庄」であった。開発領主橘氏が平氏を領家と仰いで設けられた荘園で、庄域は世羅台地のほとんどを占め、鎌倉初期、荘園領主となった高野山の検注では、「見作田」六百町歩に及んでいた。この大田庄の「倉敷地」とされたのが尾道港の始まりであった。

大田庄の年貢米二千石は、船で紀州高野山に運ばれた。世羅台地に海はない。こうして当時「尾道村」と呼ばれた海岸べりの寒村が大田庄の倉敷地に指定され、港として発展していくことになった。その後、尾道は大田庄に隣接する諸荘園の倉敷地となり、鎌倉後期には瀬戸内海屈指の港町として繁栄した。

当然、大田庄と尾道を結ぶ街道が整備され、多くの人に利用された。現184号線の左右に見え隠れする道がそれだ。鎌倉後期、大田庄の預所(代官)であった淵信は大田庄と尾道をきらびやかな行列を組んで往来した。

「高野山文書」によると、淵信の行列は「輿五、六丁、女騎数十騎、家子郎党百余騎、上下三三百人」に及んだと言う。この時代には道路の整備も相当進んでいたのであろう。

室町時代初期、大田庄が備後守護山名氏の「請地」となると、この道の重要性は更に増した。山名氏は尾道に守護所を置き、大田庄の経済力を背景に備後を支配しようとしたからだ。

府中の栗柄越えの道は木梨鷲尾城の麓をかすめて三成で国道184号線に出る。現在の国道は新尾道駅の辺りからまっすぐ沿岸部に出て国道2号線に合流するが、かつての尾道街道は新尾道駅辺りで左に折れ、山を越えて中世尾道の中心であった「長江」に通じていた(現県道363号線)。

新尾道駅の手前で県道363号線に入りしばらく進むと、バイパスの高架越しに、白い学校の校舎が見えて来る。校舎の手前に黒々とした森が見える。備後守護山名氏の守護代太田垣氏が拠ったという「赤城」の跡だ。かつては城郭の遺構をよく残していたようだが、現在では山頂が切り下げられ、見る影もない。

だが、かつての城跡に立つと、ここに城が構えられた理由がよく分る。大田庄からの道は、この城の北正面で大きく東ヘカープし、山越えに尾道に向かう。正にこの城はこの街道を押さえるために築かれた、尾道の北の砦であった。城主と伝えられる太田垣氏は、本来但馬国の豪族であった。古代より但馬には日下部姓の豪族が繁栄していた。

日下部氏は中世になると、朝倉、八木、太田垣の諸氏に分かれた。室町時代、太田垣氏は但馬朝来郡を本拠に、八木、垣屋、田結庄の諸氏と並んで、山名氏の「四天王」として勢いを振るった。その居城が総石垣の城として有名な竹田城(兵庫県朝来市)である。

太田垣氏と備後の関わりは、応永八年(一四〇一)、太田垣通泰が佐々木筑前入道と共に、山名時熙から備後守護代に任ぜられたことに始まる。以後、戦国時代の天文年間まで、守護代として活動していることが各種の記録で確認される。

『備後古城記』によると、赤城の城主は「太田垣新六」とある。系図や古文書に、大田垣氏の初名を「新六郎」とするものもあって、尾道にいた備後守護代太田垣氏と見て間違いない。守護代本人が居城したかどうかは別にして、守護所尾道を守るために太田垣氏が築いた山城の一つであったことは認めてよかろう。