2007年04月15日

毛利元康と深津王子山城(福山市東深津町・深津市の虚説)

備陽史探訪:135号」より

小林 定市

深津王子山城跡

深津王子山城跡

1、幻の深津水軍城

桃山時代の天正十九年頃から、十年間神辺城主として備後南部に足跡を残した、毛利元康の事跡が何故か現在まで殆ど検証されていない。

元康が神辺城主と深津城主であったとする記録が、長州厚狭毛利家の系図と、福山地方に散見される事から元康が神辺から深津城に進出した経緯に追ってみたい。

桃山時代の毛利氏の城を概観すると、毛利輝元は吉田庄の郡山城から広島に築城。小早川隆景は筑前名島城と本郷高山城から三原に築城。吉川廣家は出雲の富田城から米子に築城。元就の四男毛利元清も安芸廿日市の桜尾城に拠るなど、毛利一族は挙って拠点を海辺に移動させた時期であった。

元康も毛利家の趨勢に合わせ、神辺城の南方六km先の深津半島の最南端に水軍城を築城中、築城半ばで厚狭に改易となった。同地は三方を海に囲まれ後方が陸続きとなっていたが、四十数年後に始まった新涯開発で城地は削られ農地に変貌した。

築城は慶長初年前後の頃から始められたらしく、厚狭系図に依ると元康の嫡男毛利元宣(元就の外孫)は、「慶長三戊戌年備後深津城に於いて生まれる」と伝えている。母親は京都の蒲生某の娘で、築城の途中であったが関ヶ原合戦後三歳の元宣は深津を離れ長州厚狭の地に移住した。推定であるが、再室の矢野は神辺城に住まいしていた模様である。

2、毛利元康

元康は毛利元就の八男として、永禄三年(一五六〇)に吉田庄で生まれたようである。母は三吉新兵衛尉廣隆、又は三吉九郎左衛門の娘という。元就が六十四歳の時の子で、当主の甥であった輝元より七歳も年下。幼名を少輔七郎、官職名は兵部大輔、七郎兵衛尉、大蔵大輔。何時の頃からか出雲末次(現在の松江城)城主となり末次姓を称し二千四百貫を領した。系図に伝える元康の夫人は、「室杉原播磨守盛重の娘離別、再室吉見参河守廣頼の娘矢野、側室京都の人蒲生某の娘」と記している。

初陣は十七歳の時で、天正四年(一五七六)二月四日の因幡富吉城攻略戦に参加し、兄の吉川元春に従い杉原盛重や加茂町の粟根市介と共に戦い抜群の軍功を挙げたとして、毛利輝元から刀・馬・酒肴を祝儀として贈られている。

天正十三年七月九日、毛利方の福頼元秀が守っていた伯耆の川原山城を巡って川原山合戦が行われた。羽衣石城の城主南条元続は、毛利軍が伊予に出陣している隙に乗じて同城を奪った。数日後末次元康は湯原春綱・福頼元秀等とともに、調略と切崩しを以って同城の奪還に成功した。輝元は元康の偉功を激賞し「四国の小早川隆景と北の元康」を対比して兄弟の活躍を褒め、祝儀として太刀一振と刀一腰を贈っている。

元就の五男で出雲富田城の城主であった、椙社元秋(後に富田姓)が同年五月三日城内で没した。相続人が育たなかった元秋は、遺言で同母弟の元康に家督を譲るとしていたため、元康は同年十二月富田城三千五百貫を相続し新城主となった。

此の年吉川元春の三男吉川廣家(駄々っ子の我儘者)は、富田城主を望み輝元や父元春に小早川隆景等の一族に元康を大変困惑させた。

元康が神辺城主となるには伏線があり、廣家の野望が父と兄の突然の死去により棚牡丹の幸運となった。秀吉は廣家の富田城主願望を承知しており、廣家も秀吉の家臣と交友を深めたことで早く念願が成就した。

天正十九年(一五九一)三月、豊臣秀吉は毛利輝元宛に「富田城の城主吉川廣家」の朱印状を発給している。同年六月十八日に廣家は富田城に入城していることから、元康も廣家と相前後して神辺城に入城したことはほぼ間違いない。

平成十六年三月、新しく『山口県史』が発刊され不明であった厚狭毛利家文書五十六通が収載された。しかし、何故か年未詳八月十九日の末次元康宛足利義昭御内書、天正十九年十二月十七日の元清・元康宛の沼隈郡山田郷に関する長文の小早川隆景の書状、文禄四年二月十二日の今出川光豊の口宣案等の重要史料が未収載となっている。

文禄の役に、毛利輝元の代将として一万五千の兵を統率して各地を転戦した。また壁蹄館の戦いでは隆景と打合せ、日本軍を追撃する明軍を山上から分断し日本軍の大勝利に貢献する活躍をみせた。奉行からの報告に、豊臣秀吉は元康宛てに九通の朱印状を発給している。また、前記の口宣案で羽柴の姓を賜り、従五位下に叙され大蔵大輔に任官した。

慶長の役にも元康は再度渡海している。慶長二年(一五九七)六月、主家思いで一族の融和が上手かった小早川隆景は急病で没した。隆景の調整力を失った毛利家では、慶長四年毛利の支柱となければならない筈の吉川廣家は、毛利家の立場を忘れ家康方の武将に秋波を送り、毛利家の事を第一に行動する元康と不和となり、二派に分裂し殺伐としていたが輝元の執成しで両者は和解した。

当時元康に対する輝元の信任は格別で、何事も安心して胸中を吐露して相談できる相手であった。輝元が関ヶ原合戦直前のころ元康に宛てたと推定できる、年月日未記入の密書十七通を伝えており如何に信頼が深かったかを物語っている。

書状の巻末に「此状火中」と書かれた書状や、冒頭に「則火中」と書かれた書状の中程に「御城(大坂城)つめニハ、こいて。かたきり(小出秀政但馬出石六万石・播磨に所領片桐且元)など居り候、是ハ内府(家康)かたにて候」と、生々しい東西陣営内の情報を伝えている。

秀吉が大坂城に続き伏見城を築城したことから、兩城を結ぶ淀川の水運は一層重要性を増していた。当時の淀川は、氾濫が多発して堤防の修築を必要としていた。慶長元年(一五九六)二月頃、元康は輝元に従い築堤の普請を手伝ったらしく、豊臣秀吉が摂津大塚の茶屋に訪れた際、輝元は小鼓・元康は太鼓・廣家は笛で熊野を演じている。此の淀川築堤が機縁となってか、元康は蒲生某の娘を側室にした可能性が高い。

慶長五年九月の関ヶ原合戦に於いて、毛利本家を支えなければならない毛利の両川(吉川廣家・小早川秀秋)は腐り落ちた。両川は毛利本家の存亡等は眼中になく、個人の目前の感情を優先し利敵行為と裏切りで本家を滅亡寸前に追い込んだ。しかし、元康だけは輝元の代将として一万五千の軍勢を統率し、大津城を攻略し見事輝元の期待に応えた。

関ヶ原合戦の際、西軍から東軍に鞍替えした京極高次は、三千の軍勢と共に大津城に籠城して東海道を封鎖した。事態打開のため大坂から急遠派遣された元康は、城の西方長等山に朝鮮から持帰った大砲を据え、三重の濠に囲まれた金箔桐紋瓦の大津城目掛けて砲撃を開始した。

大砲による砲撃戦は国内最初の戦いで、予てから関ヶ原戦を想定していた家康は、大津城の強化に多額の資金援助を行っていた。しかし、高所からの大砲攻撃は全く想定しておらず、家康の防御戦略に欠陥があることを元康は即時に見抜いた。

元康配下の武将の中には、十三万石以上の大名(立花宗茂・筑後柳川、小早川秀包・久留米、宮部長熈・鳥取)が三名も名を連ね、杉原盛重と戦った南条元忠(伯耆羽衣石六万石)の他に十数名の大名と、豊臣秀頼の家臣が多数含まれていた。

関ヶ原合戦二日前の大津城総攻撃は、元康が準備した弾除け用の松の大楯と、濠を埋める渡濠用の刈草が効果を発揮し、幅四十m近い外濠を難なく突破し城内に侵入した。三の丸に続き二の丸を占拠され、本丸鉄門で激闘があり、高次の馬廻(大将高次の護衛武士)二十二士が戦士した高次は、元康の軍門に下り同日夕刻頭を丸め降参を申し出た。

大津籠城戦に関する徳川系の学者に依る通説は、九月十五日に落城した事になっている。しかし、高野山奥の院参道にある大津籠城戦死者供養碑(高さ棹二、三m)には、「慶長五年庚子九月十三日、大津宰相高次籠城之節討死之忠士等高次馬廻也」と刻み、その両脇に戦死者二十二名名を刻んでいる。十三日で戦いは終結し十四日の戦闘記録は確認できない。大津市立歴史博物館には、高野山供養碑の写真と説明文が見られるが、戦死者の人数は書かれているのに都合の悪い月日は態と記載されていない。

元康の智謀と軍略が成功した訳で少数の犠牲で最大の戦果を挙げることに成功したのである。後年家康は元康の戦略を参考に、大坂夏の陣では外濠を埋め大砲を発射した。後年神辺・福山の領主となった大名家の、関ヶ原合戦当時の石高と動員軍勢数を明らかにすると、福嶋正則が尾張清洲で二十四万石・六千。水野勝成が刈谷三万石・九百。松平氏は上野國長根七千石。阿部氏は武蔵鳩谷で五千石を領していた。

戦後家康は大津城の敗北を西国大名に想起させないため、大砲の弾が届かなかった天守を彦根城に移し、城郭は全て解体して城跡を更地にして敗北の痕跡を抹消した。

毛利軍の不戦敗で元康の病状が悪化したのか、輝元から厚狭の一万五百石の所領を与えられても、大坂の毛利木津屋敷を動くことなく慶長六年正月十七日同地で死没。四十二歳。墓は大阪天満の臨済宗天徳寺の墓地に五輪塔がある。天徳寺の寺歴は不詳であるが、宮原直倁は「神辺の龍泉寺の前に天徳寺畑と云う寺跡あり、福嶋正則の領国になって播州へ引く、其の後大坂天満北寺町へ移して天徳寺と号して今にこれあり。」との内容文を書き残している。元康は兄元秋の墓(宝篋印塔)を、富田城山麓の新宮谷の臨済宗宗松寺跡に建てている。毛利氏の寺院が神辺城山麓に存在することは予想できることで、嫡子元宣が天徳寺の移動に関与した可能性は極めて高い。

3、虚説の市村深津市説

元康が築城した現在の深津町王子山は、『日本霊異記』の宝亀九年(七七八)に登場する「深津市」の南方に立地したと考えられる。しかし、福山市が主張してきた「深津市」は、蔵王町の市村であると説明されてきた。果たして福山市の主張は間違いないのであろうか。

市村の「深津市」説は確実な史料が存在するわけでなく、周辺の状況に依る想像の産物で確証は何も提示されていない。ただ宮の前廃寺跡(海蔵寺・國史跡)が古代の繁栄地であるとの推測から、深津庄の隣接地は繁栄した可能性がある。といった単純な理由から市村の「深津市」説が主張されてきた。

筆者が先年天理大学付属天理図書館から取寄せた、『兼右卿記』の紙背文書『別本伺事記録』「延徳二年(一四九〇)閏八月、室町幕府引付(幕府奉行人清元定の筆録)控文書」に依ると、「備後國吉津庄内市村地頭方代官職」と書かれており、中世の市村は吉津庄に包含され深津庄とは無関係の土地であった。福山市の常識とされてきた歴史は日本の非常識でもあった。備後の文字は清元定個人の控文書であるため備後を省略し國名から書き始めていた。

前記の室町幕府の引付史料により、深津庄は貞観九年(八六七)の庄園成立当時の面積九十五町歩は、近代迄殆ど変化が無かった事を意味している。もし福山市が従来からの主張を崩さないのであれば、深津庄内に市村が存在したことを立証する史料を開示すべきであろう。

4、深津市の地名米座と市場

実は深津半島の南面中央部の深津町七丁目一帯は、中世の「深津市」が存在していたことを示す地名が伝えられていた。同所には米座・市場・鍛冶屋等の地名があり、米座は中世に米を独占販売した米商人の座に由来する地名であった。

米座町内の真言宗光明院が、文化二年(一八〇五)藩役所に提出した『寺院由緒抜書』の中に、「深津村市場 遍照山無量寺光明院」と光明院は寺の所在地を市場としていた。市場の地名の由来は中世の商業地名に因んだものと考えられ、同地は現在米座町内と呼称されている。

深津市に関する中世史料は少ないが、鎌倉時代後期に京都の覺道なる人物が、歌嶋の公文知栄宛に書いた厳島神社所蔵の『反故裏経の紙背文書』に「そのさいふ(割符)」「ひんこ(備後)のふかつのいちへ」と書かれており、福山湾内の深津市では上方の割符(為替手形)を換金する事が可能であった。

米座の地名を今に伝える地域は、近世初頭までは海岸であったと推定できる場所で、北から南に伸びる「くの字」形に凹んだ古道の街路沿いに、中世の町屋敷跡である短冊地形の名残と見られる「鰻の寝床」の式の地割りの痕跡が所々に見られる。

米座には北から南に進む道路の他に、西方から低い尾根越しに米座に到達できる古道がある。同所の四辻には御影石で造られた道標「高さ約七十m。約二十一m角の尖先」が建ち、二面に「左ふく山。右かさ岡」の陰刻文字が刻まれている。

深津町米座の道標

深津町米座の道標

新開造成後の米座は福山と笠岡を結ぶ主要道となっていた。四辻を南進すると、引野町鍋蓋から笠岡に至る脇街道の笠岡街道が通じていた。

前記の事由から元康が築城した王子山の北方には、古代から中世にかけて繁栄していた「深津市」が存在していたのである。元康は福山湾内深津の流通商業拠点に着目し、築城を推進した可能性が高い。

5、深津王子山城

米座から南方約千m先にある王子山(標高約二十m)は、東西約百三十m×南北約二百五十mの規模で、後方の山は連続して連なっていた。近世初頭まで王子山周辺は海であったが、寛永末頃からの新涯開発で山の土砂が多量に採取使用されたらしく、築城当時の地形を推測復元することは困難な状況になっている。

山頂は王子神社と薬師寺の墓地になっており、現在の地形から城跡の痕跡を見出し難く、強いて探すと王子神社の脇にある井戸が、城用に掘られていた水源を窺わせる唯一の遺蹟と見做される。王子山の地名の由来に就いて、寛永十六年(一六三九)三月の『寛永寺社記』山手村の条に「八幡宮杉原盛重建立。毛利元康居を深津村に移すの時蔀山(米座の北方)に勧請し奉る、然るに神慮(神の御心)に應ぜざる故に、又本の地に還御(戻す)し奉る。元康新に深津村の遠々地(おおじ)の山に築城す」と記している。

王子神社井戸

王子神社井戸

元康が深津に築城した初見の地名は遠々地山であった。次いで宝永八年(一七一一)の「差出帳」には、「古城二ヶ所、大路山城主毛利元康」と書かれ、地名は遠々地山から大路山の当て字が用いられている。王子山の地名が登場するのは、築城から百数十年経過した頃書かれた『備陽六郡志』の、「深津村王子山毛利大蔵大輔元康の古城也」が初見である。

元康は故郷郡山城内の臨済宗妙寿寺周泉和尚と親交があり、吉田庄から末次城・富田城と移っている。その際吉田の清神社・末次・富田の何処かの地で、信仰していた神を深津の城館に勧請して「遠々地の神」として祀った事が遠因となり王子山と呼称されたようである。

厚狭毛利家系図に依ると杉原盛重は元康の昔年の舅で、盛重の出自は山手の銀山城主を経て神辺城主になっている。神辺に派遣され身寄りがいなかった元康は、盛重が奉斎していた山手八幡宮を深津に勧請して守護神としたのである。しかし、関ヶ原の合戦に毛利が徳川に敗れると、八幡宮の効験を疑われ元の山手村に還御されたのである。

『寛永寺社記』に記されている、深津村の神社は「八幡一社・大明神一社・艮一社」の三社であった。八幡一社とは、深津市の人々が古くから信仰してきた蔵之崎の出崎八幡宮であった。蔵之崎の由来は元康が領内から集めた米を保管する米蔵を設けた事から蔵之崎と呼称された。また深津の地に江戸時代中期頃まで伝えられた言葉に、「他村を在郷(田舎)と云い、他村の人を在郷者(田舎者)と云う」と、近郷他村より優越した先進都会性の表現を用いていた。この中世の市の都会性の名残を窺わせる言葉からも、深津が近世以前に海上交易の中心地であった事が裏付けられる。

日本には昔から文学を書くことが好まれ、上方で備後の実情を把握することなく深津と足利義昭を結び付けで適当な内容の物語を書いた人がいた。物語である『室町殿日記』は、深津の蔀山に義昭の居館があったと書いている。しかし、題名の下に日記と書かれていても、中身は日記ではなく創作物語で資料価値のない書籍であった。

福山市は物語を典拠として、「伝足利義昭居館跡・蔀山」を市史跡に指定していたのである。しかし、将軍が実際に居住した場所は鞆や津之郷であり、事実誤認の市史跡の指定は早急に解除すべきであろう。

元康の支配が終わってから二十年経過した後、深津の西方二km先の地に福山城の築城と併せて城下町の建設が進められた。その際深津村から多くの町人が城下町に移住したことから深津町の町名が付けられた。

6、津之郷の御殿山と鹿島城山

足利義昭が鞆からの移転した先は津之郷村の御殿山で、同地は深津から西方六km余先に立地していた。鞆に在国していた義昭は織田方の海上攻撃に脅え、輝元に鞆の退去を要望し実現したのが御殿山である。

御殿山に移った義昭はまだ海上攻撃に安心出来ず、筆頭近臣の真木島昭光を御殿山の東方二km余先にある、鹿嶋(後年の神島村)の城山に在城させ海上からの攻撃に備え安全を図った。鹿島城下には諸国から大名の使者も訪れると同時に、多くの商工人も集住して賑わっていた。

沼隈郡鹿嶋村の歴史地名が、備中神島(こうのしま)と誤解されてきた。長和庄に神島が存在した史料はなく、元和五年(一六一九)の幕府『知行日録篤』と、寛文四年(一六六四)に幕府が発給した『領知之目録』の両書は何れも鹿嶋村と書かれており、近世初頭には沼隈郡に神島村は存在しなかった。地名を惑乱させた書籍は『西備名区』が底本で、鹿嶋から神島の地名に変更されるのは福山城下に分町して進出した鹿嶋町に原因があった。

鹿嶋村から福山城下に移住した分町の商人は、母村の鹿嶋村(『小場家文書』水野勝重書状・十・其地鹿嶋町之跡)に因み町名を鹿嶋町としていた。ところが寛永十七年(一六四〇)の火災で鹿嶋町が焼失し、鹿嶋町の町人は少し東方の地に場所替えとなった。その際火災を起こした旧町名は不吉として忌み嫌われ、新たに神島町の町名が採用された。

真木島昭光時代の鹿嶋城下には、貴人の遊戯である蹴鞠遊び等の京文化が伝えられていた。文禄の役に肥前名護屋へ下向途中の木下勝俊(秀吉の正室高台院の弟・越前小浜城主)は、鞆から鹿島に行き氏名不詳(真木島昭光)の人物と会い旧交を温めている。

その際話に花が咲き蹴鞠遊びをすることになり、蹴鞠の装束を義昭の旧居御殿山から取寄せたらしく、勝俊は日暮れまで蹴鞠をして楽しく過している。夜は宿があった山手村に行き辻堂で休み夜更けまで月を眺めながら便りを書いている。

毛利輝元は足利義昭(昌山)に対し、場所を特定することができないが津之郷・長和・鹿島一帯の地で千三百五十石の所領を保障していたようである。義昭は文禄の役には豊臣秀吉に随従して名護屋に下向しており、真木島昭光は義昭の代官として鹿嶋の城山に滞在していたらしく、郡誌は天正十九年八月に八幡神社が建立されたと伝えている。水野勝成が備後南部の神辺に入部して、福山城の築城に着手する二十数年以前、福山城の東と西の各々二km先にあった深津に元康・神島に真木島昭光の城下町が早くも萌芽していたのである。記録が少ない桃山時代の福山湾では、自由闊達に川と海の交易商人達が往来していた。