歴史の謎(足利高氏の軍勢催促状について)

備陽史探訪:130号」より

小林 定市

足利高氏(尊氏)は元弘三年(一三三三)五月六日、京都を防衛する六波羅幕府軍との決戦を前にして、備後國の御家人で長和庄(福山市)と信敷庄(庄原市)の地頭である長井貞頼に対して、『毛利家文書』に記載された次の軍勢催促状を送った。

伯耆國より 勅命を蒙り候の間、参じ候。合力候らはば、本意に候。恐慢謹言。 五月六日  高氏(花押) 長井弾正蔵人(貞頼)殿

高氏は四月二十七日、伯耆國船上山行在所の後醍醐天皇から、密かに鎌倉幕府誅伐の勅命を受けたことを貞頼に知らせ、有力な武士である貞頼に合力を要請したのが前記の書状。

この軍勢催促状だけなら別に問題は無いのであるが、翌七日、足利高氏・赤松円心・千種忠顕等の後醍醐軍の連合軍は、六波羅探題に総攻撃をかけて六波羅を陥落させた。驚いた事に、長井貞頼はその七日に高氏に味方し活躍したとして、「今月七日、御方に馳せ参じ候らい畢んぬ」と、翌日の五月八日と翌九日に、高氏の奉行所に着到状を提出していた。

現代のように電話や新幹線に自動車があれば兎も角、何の交通手段も無い鎌倉時代、京都から高氏の密使が備後に到着するまでにはかなりの日数を必要としたことであろう。また、貞頼が高氏に合力することを決断したとしても、武器や食料に一族郎党や馬などを準備だけでも大変で、京都に到着するまでには相当の日数を要したことは確実である。

日本史の謎となっている、高氏の軍勢催促状に対して、下記の三書には解説が付けられている。

  1. 「日本の古文書』は「備後國の御家人長井貞頼に充てたものである」
  2. 『福山市史』は「備後の一部地頭長井貞頼等は、此の地方から直接高氏の旗下に参加した武士」
  3. 『足利尊氏文書の研究』は「前日に発信したこの文書が、備後の長井貞頼の許に達する以前に、六波羅は落ちたのであった。とすると、四月二十七日の初度に次ぐ再度の催促状ではなかったか」

『足利尊氏文書の研究』には、京都から僅か十日間の内に備後に密使が到着し、密書に応じて備後から上京したとする内容である。以上何れの著書も共通して、京都から備後の地頭に送付された文書と結論付けられてきた。

それでは鎌倉時代、京都から備後に書状が到着した後、書状を受取った備後の武士は何日後に上京できたのであろうか。その手掛りとなる事件の文書が残されていた。

正應三年(一二九〇)三月九日夜(十日早暁)、内裏の衛門に荒武者三人が乗馬したまま皇居に乱入した。赤鬼のような大男は赤地の錦の直垂に緋絨の鎧をつけた甲斐國の浅原八郎為頼と子息二人であった。

当時は京都や鎌倉で事件が発生すると、御家人は速やかに幕府が指定した地域に駆けつける決まりがあったらしく、事件後御家人四名が幕府の奉行所に着到状を提出していた。

一ヵ月後、最初に駆けつけたのが播磨の廣峯長祐で、同人の着到状には

播磨國の御家人廣峯治部法橋長祐、朝原八郎(為頼)の事に依り、馳せ参じ候、此の旨を以って、御披露有るべく候、恐性謹言。  正應三年卯(四月)月十日  法橋長祐上  進上 御奉行所

『廣峯胤忠所蔵文書』

と記している。

次に下記三通の内容文は省略し、國名と地名に出典のみを記す。

  1. 「美作國河会郷一分地頭、渋谷重村着到状」四月廿一日、『入来院岡本家文書』
  2. 「出雲國大庭田尻地頭、出雲泰孝代政行着到状」四月廿一日、『出雲千家文書』
  3. 「備後國泉庄踊喜村地頭、源景頼着到状」五月六日、『毛利家文書』

最も早かったのは、播磨國の廣峯長祐で事件発生後から計算して三十日後に上京している。続いて美作國と出雲國が四十一日後で、備後は最も遅く五十五日も要していた。備後の源景頼は少し遅れ過ぎのようであるが、美作・出雲並みに推定すると、四十一日程度が妥当な日数と考えられる。

中世史を解明する鍵として、戦前から研究対象史料とされてきた高氏の軍勢催促状にも、このように大きな錯誤が存在していたのである。その要因は長井貞頼の家系文書研究が放棄されてきたためである。

草戸の明王院には貞頼の父頼秀が建立した、国宝の堂塔に頼秀の銘文が残されているにも拘らず、明王院の創作寺伝を優先するあまり、長井文書を黙殺してきたのが最大の要因と考えられる。

それでは何故長井貞頼は、足利高氏の五月六日の軍勢催促状を見て、翌七日の合戦に味方することが出来たのであろうか。その秘密は見逃されてきた長井氏文書の中にあった。

長井氏の文書に、幕府が備後國信敷庄半分地頭職を付与した際、京都四条鳥丸を篝料所として沙汰している。当時の篝屋警護人は京都常駐が義務付けられていた。

前記の経緯から、長井貞頼は信敷庄の地頭職を継承する限り、信敷庄の地頭得分を以って在京することが義務化され、四条鳥丸の篝屋勤番は当然の責務となっていた。以上の事由から貞頼は備後に在住していた御家人でなく、六波羅探題の指揮下にあって京都市中の警衛に従事していた在京の武士であった。

足利高氏が九州薩摩の島津貞久・肥後の宇治惟時・豊後の大友貞宗に宛てた軍勢催促状は、何れも縦横約十cm程度の頗る小さい絹布を用いたものであった。なぜ絹布を用いたかに付いて、敵方の領内を通り抜ける必要性から、密使の便宜を図って髻に縫いこんだと伝えられている。

高氏が貞頼に宛てた軍勢催促状は、九州の三大名に宛てた催促状と異なり約十倍も大きい、縦三十三cm×横四十三cmもある竪紙であった。貞頼の催促状が通常の用紙であった事は、遠方に送る必要が無かった事を意味しており、差出先は備後ではなく京の市中だったためである。

僅かに残された古文書を手掛かりに、備後地方の六波羅探題攻撃軍を再現すると次の事実が判明する。備後で高氏に味方した武士は貞頼の他に海老名五郎左衛門尉が居た。元弘三年六月四日信敷庄東方地頭、海老名五郎左衛門尉に対して高氏は所領安堵状を出している事から、高氏軍が六波羅を攻撃した際海老名五郎左衛門尉は高氏の麾下として活躍していた「山内家文書』。

『毛利家文書』に依ると、伏見・竹田方面から六波羅を攻めた千種忠顕軍の中に、備後國泉庄踊喜村の地頭城清源が着到状と軍忠状を提出している。

赤松円心の軍勢は、京の西南方面から東寺一帯に進撃して六波羅軍を攻撃している。赤松勢の中には、備後國泉庄踊喜村の地頭城頼連がいた『毛利家文書』。

また因島の治部法橋(従来の通説・村上義弘)は、軍忠状を大塔宮に提出したのであろうか大塔宮の令旨を伝えている『因島村上文書』。

備後國津田郷の地頭山内通継は、最初赤松円心に軍忠状を提出し円心から證判を得ていたが、高氏の奉行所に多くの武士が出入りするのを見て羨ましくなったのか、今後は高氏に軍忠を尽くすとして、高氏の奉行所に着到状を提出し高氏の證判を得ている『山内家文書』。

以上、本会の城郭部会の学習に於いて判明した事柄を纏めたもので、城郭部会の勉強会では古文書を収集して再検討していると、以外に多くの新たな事実の発見に遭遇するものである。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2006/06/ebc10f22e54afdca86095745ca23d3fd.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2006/06/ebc10f22e54afdca86095745ca23d3fd-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:130号」より 小林 定市 足利高氏(尊氏)は元弘三年(一三三三)五月六日、京都を防衛する六波羅幕府軍との決戦を前にして、備後國の御家人で長和庄(福山市)と信敷庄(庄原市)の地頭である長井貞頼に対して、『毛利家文書』に記載された次の軍勢催促状を送った。 伯耆國より 勅命を蒙り候の間、参じ候。合力候らはば、本意に候。恐慢謹言。 五月六日  高氏(花押) 長井弾正蔵人(貞頼)殿 高氏は四月二十七日、伯耆國船上山行在所の後醍醐天皇から、密かに鎌倉幕府誅伐の勅命を受けたことを貞頼に知らせ、有力な武士である貞頼に合力を要請したのが前記の書状。 この軍勢催促状だけなら別に問題は無いのであるが、翌七日、足利高氏・赤松円心・千種忠顕等の後醍醐軍の連合軍は、六波羅探題に総攻撃をかけて六波羅を陥落させた。驚いた事に、長井貞頼はその七日に高氏に味方し活躍したとして、「今月七日、御方に馳せ参じ候らい畢んぬ」と、翌日の五月八日と翌九日に、高氏の奉行所に着到状を提出していた。 現代のように電話や新幹線に自動車があれば兎も角、何の交通手段も無い鎌倉時代、京都から高氏の密使が備後に到着するまでにはかなりの日数を必要としたことであろう。また、貞頼が高氏に合力することを決断したとしても、武器や食料に一族郎党や馬などを準備だけでも大変で、京都に到着するまでには相当の日数を要したことは確実である。 日本史の謎となっている、高氏の軍勢催促状に対して、下記の三書には解説が付けられている。 「日本の古文書』は「備後國の御家人長井貞頼に充てたものである」 『福山市史』は「備後の一部地頭長井貞頼等は、此の地方から直接高氏の旗下に参加した武士」 『足利尊氏文書の研究』は「前日に発信したこの文書が、備後の長井貞頼の許に達する以前に、六波羅は落ちたのであった。とすると、四月二十七日の初度に次ぐ再度の催促状ではなかったか」 『足利尊氏文書の研究』には、京都から僅か十日間の内に備後に密使が到着し、密書に応じて備後から上京したとする内容である。以上何れの著書も共通して、京都から備後の地頭に送付された文書と結論付けられてきた。 それでは鎌倉時代、京都から備後に書状が到着した後、書状を受取った備後の武士は何日後に上京できたのであろうか。その手掛りとなる事件の文書が残されていた。 正應三年(一二九〇)三月九日夜(十日早暁)、内裏の衛門に荒武者三人が乗馬したまま皇居に乱入した。赤鬼のような大男は赤地の錦の直垂に緋絨の鎧をつけた甲斐國の浅原八郎為頼と子息二人であった。 当時は京都や鎌倉で事件が発生すると、御家人は速やかに幕府が指定した地域に駆けつける決まりがあったらしく、事件後御家人四名が幕府の奉行所に着到状を提出していた。 一ヵ月後、最初に駆けつけたのが播磨の廣峯長祐で、同人の着到状には 播磨國の御家人廣峯治部法橋長祐、朝原八郎(為頼)の事に依り、馳せ参じ候、此の旨を以って、御披露有るべく候、恐性謹言。  正應三年卯(四月)月十日  法橋長祐上  進上 御奉行所 『廣峯胤忠所蔵文書』 と記している。 次に下記三通の内容文は省略し、國名と地名に出典のみを記す。 「美作國河会郷一分地頭、渋谷重村着到状」四月廿一日、『入来院岡本家文書』 「出雲國大庭田尻地頭、出雲泰孝代政行着到状」四月廿一日、『出雲千家文書』 「備後國泉庄踊喜村地頭、源景頼着到状」五月六日、『毛利家文書』 最も早かったのは、播磨國の廣峯長祐で事件発生後から計算して三十日後に上京している。続いて美作國と出雲國が四十一日後で、備後は最も遅く五十五日も要していた。備後の源景頼は少し遅れ過ぎのようであるが、美作・出雲並みに推定すると、四十一日程度が妥当な日数と考えられる。 中世史を解明する鍵として、戦前から研究対象史料とされてきた高氏の軍勢催促状にも、このように大きな錯誤が存在していたのである。その要因は長井貞頼の家系文書研究が放棄されてきたためである。 草戸の明王院には貞頼の父頼秀が建立した、国宝の堂塔に頼秀の銘文が残されているにも拘らず、明王院の創作寺伝を優先するあまり、長井文書を黙殺してきたのが最大の要因と考えられる。 それでは何故長井貞頼は、足利高氏の五月六日の軍勢催促状を見て、翌七日の合戦に味方することが出来たのであろうか。その秘密は見逃されてきた長井氏文書の中にあった。 長井氏の文書に、幕府が備後國信敷庄半分地頭職を付与した際、京都四条鳥丸を篝料所として沙汰している。当時の篝屋警護人は京都常駐が義務付けられていた。 前記の経緯から、長井貞頼は信敷庄の地頭職を継承する限り、信敷庄の地頭得分を以って在京することが義務化され、四条鳥丸の篝屋勤番は当然の責務となっていた。以上の事由から貞頼は備後に在住していた御家人でなく、六波羅探題の指揮下にあって京都市中の警衛に従事していた在京の武士であった。 足利高氏が九州薩摩の島津貞久・肥後の宇治惟時・豊後の大友貞宗に宛てた軍勢催促状は、何れも縦横約十cm程度の頗る小さい絹布を用いたものであった。なぜ絹布を用いたかに付いて、敵方の領内を通り抜ける必要性から、密使の便宜を図って髻に縫いこんだと伝えられている。 高氏が貞頼に宛てた軍勢催促状は、九州の三大名に宛てた催促状と異なり約十倍も大きい、縦三十三cm×横四十三cmもある竪紙であった。貞頼の催促状が通常の用紙であった事は、遠方に送る必要が無かった事を意味しており、差出先は備後ではなく京の市中だったためである。 僅かに残された古文書を手掛かりに、備後地方の六波羅探題攻撃軍を再現すると次の事実が判明する。備後で高氏に味方した武士は貞頼の他に海老名五郎左衛門尉が居た。元弘三年六月四日信敷庄東方地頭、海老名五郎左衛門尉に対して高氏は所領安堵状を出している事から、高氏軍が六波羅を攻撃した際海老名五郎左衛門尉は高氏の麾下として活躍していた「山内家文書』。 『毛利家文書』に依ると、伏見・竹田方面から六波羅を攻めた千種忠顕軍の中に、備後國泉庄踊喜村の地頭城清源が着到状と軍忠状を提出している。 赤松円心の軍勢は、京の西南方面から東寺一帯に進撃して六波羅軍を攻撃している。赤松勢の中には、備後國泉庄踊喜村の地頭城頼連がいた『毛利家文書』。 また因島の治部法橋(従来の通説・村上義弘)は、軍忠状を大塔宮に提出したのであろうか大塔宮の令旨を伝えている『因島村上文書』。 備後國津田郷の地頭山内通継は、最初赤松円心に軍忠状を提出し円心から證判を得ていたが、高氏の奉行所に多くの武士が出入りするのを見て羨ましくなったのか、今後は高氏に軍忠を尽くすとして、高氏の奉行所に着到状を提出し高氏の證判を得ている『山内家文書』。 以上、本会の城郭部会の学習に於いて判明した事柄を纏めたもので、城郭部会の勉強会では古文書を収集して再検討していると、以外に多くの新たな事実の発見に遭遇するものである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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