2005年06月15日

横尾町備忘録(藪路街道に残る歴史の足跡)

備陽史探訪:124号」より

根岸 尚克

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横尾は昔の町並が残る所。かつて人々が往き交った街道は今は車が往き交う。町並みの東の背後は峠山の傾斜があり西の背後は平地で団地がある。近くに横尾駅もある。古代の伝説と近代の遺構の残る一帯の散策を時にふれ楽しんでいる。大化二(六四六)年国郡の制が定まり最下部の行政単位として里を設けた。里は五十戸で構成され、余りの戸を余戸(よご)又は余部(あまるべ)と称した。横尾然りと言う。余部の鉄橋もそうである。

入江大蔵正高の事。

住んでいる団地の裏山を越え反対側に降りると藪路(やぶろ)本谷。八風呂共書く。風呂は奥まった所の意、弥生(いやふる)が元と言う古い地名である。本谷は周辺集落の根本となる谷。そこに杉原盛重の家老で陰徳太平記に戦功の名を残し、備後古城記に藤尾村石屋原城父木野(ちぎの)村古城皆此人城主とある入江大蔵正高を祀る大蔵神社があり九輪が御神体。傍に小さい石塔二基、一つは長方形、一つは五輪塔で九輪は欠損しているが御神体とは別のものである。六郡志に石塔は屋敷の向山に有。正徳の頃迄由緒の人福山より詣でるも近頃は侍らず。屋敷は組頭宗五郎が屋敷也。大蔵は七十入力。楠の大木を百名で山手村俄越(弘法水附近)の下り坂を降ろしかねているのを見兼ねて難なく峠の細道を下りけるが肋骨悉く外れ死しけるとかや。福山志料も人物の項に墓藪路に有言々とある。牢入し高屋にも住し石塔有、父木野にも石塔有りと一言つ。水野勝成の仕官の薦めも辞したと言う。

小薮路を抜け高速道を潜り北に行き着くと峠山の麓。山腹に向かう坂を登ると小径が東と北に分かれる。東行すれば山頂にある盈進学園の通学路と合流。山腹を巻き北に歩く。

岩明神の事。

雑木林を切り開いて稲荷社秋葉神社等が祀ってあるところに出る。巫子(みこ)神社という社もある。ここから鳥居を潜り岩明神への石段を登る。以前鳥居の脇の杉の古木に蜂が巣をかけていたが本は切られていた。石段を登ると岩明神社ですぐ上は盈進のグランド。太古日本武尊此地に来て阿武山に盤踞し郷人を痛める悪神を討し当山に一服された時腰を掛けられた岩が御神体。書紀景行記に「日本武尊吉備に至りて穴海(あなのうみ)を渡る。其処悪神有。則殺」とある。拝殿に扁額有「地形は宜(むべ)山に直面し東は横尾西は宜山穴海の門即宜の渡なるべし。尊を渡し奉りし渡守の名不知と雖其屋敷跡公祖除地維新後民有地」伊和大明神播磨より勧請(西備名区)志料に祭神屋船豊宇気姫神体石也。播陽史に伊和大明神三殿東五十猛西大巳貴中空社九神。六郡志に以前小社なりけるが寛保元年右之通建立し侍る。本社壱問×壱間半拝殿九尺三間。別の届額に、享保元年再建明治初現社殿建立、昭和四十二年盈進学園横尾山に進出、夫婦岩は玄関脇に移す。元来当社は山の半腹に有しを尊腰を掛け給いし厳の地に遷奉す。社傍より剣古陶器等出るとある。御神体の一m程の立石が本殿裏にあるが背後の山中に蒲鉾状の磐座があり之が原初ではなかろうか。

夫婦岩亦烏帽子岩、横尾山上に二つ並びたる石也(志料)とある。創始も分からない古社である。石段を町並迄降りて北に行くと鶴が橋の三叉路で福塩線の踏切の傍に文久三年建立の出雲大社道の道標が建つ。線路沿いの国道を少し東に行くと峠山の崖下に真言宗一松院。峠山を巡る八十八箇所の一番霊山寺と八十八番大窪寺がある。狭い境内に石塔が五基程も辺りを圧して立つ。①正面、南無阿弥陀佛 徳本。右、天下和順日月清明風雨以時灾厲(れいさい)不起。左、国豊民安兵戈無用宗徳興仁務脩禮譲。灾属は災(わざわい)の意。②奉納乗妙日本回國これは回国記念碑③天明七年の宝篋印塔 これは天明の一揆と関連があるか④昭和九年の三界万霊塔⑤大型の球に種子を刻む石塔。昨年の台風で崖崩れがある。無住の御堂は荒れているが八月十七日盆の催しをしますとワープロで打った張り紙がある。

鶴が橋

一松院前の道を横切り踏切を渡り高屋川の川原に降りると線路の堤の一角に旧鶴が橋の橋脚が残る。安部氏が吉備津神社に鳥居奉納の為渡しを使用した折、鳥居の積み降ろしで船頭が怪我をした事で土橋を架けたのが始まりで鶴が辺りの洲に来るので橋の名になる。長さ二十一間欄干有橋之元揚柳有。昔は寉(つる)か渡しとて遠く西の山麓迄往来す。明和六年横尾町失火し橋守か家にありし櫓漿皆焼失(志料)と記し、神辺内陸福山と三方面の別れ道で三つ頭と呼ばれた。その後板橋となり、今残る橋脚は大正三年コンクリート製の橋の橋脚で貴重な遺構である。昭和五年の写真があり端の傍に三mの石柱が建ち、鞆□□と読めるので道標でその横に出雲大社道の道標もみえる。現在の橋は昭和十一年少し下流に架けられ、出雲大社道の道標も移されたが三mの道標はどこに行ったのか。橋脚といえば広畑内科の所の旧街道脇にも残っている。

両備軽便鉄道のもので大正三年福山府中間に開通。横尾駅を出た列車はここにあった鉄橋を渡り奈良津トンネルに向かった。その後国鉄となり線路も西回りとなり鉄橋も壊され橋脚が残った。両方向の地形に当時の情景が窺える。奈良津トンネルも壊され線路跡は国道となった。尚深津の辻の坂の勾配を緩く幅を広げる工事で出た土石を軽便鉄道敷設に用いた。街道を南下一本木八幡神社に登る。

藪路坂田両村之生土神祭神端津姫思(たごり)姫市杵島姫(志料)文禄元年身野平に四尺四方の宮を建つ。松の大木有一本木と言う。影になる所は青影と言われた。勝成公御覧になり木を刈り天主の大黒柱とし代償として今の地に新殿を建つ(井上家文書)寛延三年改築明和年間火災、再建。藪路坂田の境にあり藪路に氏神が無く坂田村に頼み両村の土生神となる。参道も両村にある。改修碑も藪路が行ったものは藪路側に坂田が行ったものは坂田側に建つ。面白い。岩明神の小祠あり横尾からの分霊か。藪路側登り回の燈籠に「日月清明天下和順」と刻む。一松院の石碑と同じ文言である。狭潟が元だといわれる坂田。横尾藪路と古い地名を伝える。

横尾飴の事

鶴が橋の袂の家の壁に横尾飴の古びた看板を見た時、忘れていた幼い頃の自転車の横尾飴売りのおじさんから母が飴を買ってくれた思い出が微に蘇る。天明の頃常八なる商人竹原より来たり子常吉家号を竹原屋とし製飴を始める。文政の頃という。三代吉助の時城下に行商を許さる。阿部公御賞味され定紋付木盃と御用鑑札を賜わる。箱を担ぎ竹笛を鳴らし横尾飴と連呼する。子岩吉秘伝を町内数家に伝授、弟虎吉継ぎ売子数十人。福松継ぐも戦争で中絶戦後復活。鞆祇園笠岡道通様一の宮、東城広島大阪迄進出、泣く子も笑うと言われた横尾飴は歴史の彼方に去ってしまった。