備陽史探訪:117号」より

田口 義之

吉備穴国造と吉備品治国造

タイムマシンに乗って、福山の上空から市街を見下ろすと、過去にさかのぼるごとに陸地が狭くなっていく。400年前、水野勝成が福山城を築いた頃、多治米・川口の一帯は海の底であった。さらに1500年程さかのぼると、河口は神辺平野の南のあたりにあった。備後の政治的な歴史はこの時代からはじまった。今から1600年前の古墳時代、日本全国は120近い小さな国に分かれ、「国造」と呼ばれる王様が治めていた。その頃の天皇家の力はまだ弱く、国造の上に立って緩やかに国土を統治しているだけであった。古書をひも解くと福山周辺には、こうした国が二つあってそれぞれ国造によって治められていたことが分かっている。すなわち「吉備品治国」と「吉備穴国」である。品治国は今の駅家あたりに中心があって「大船足尼」と呼ばれる国造が治め、穴国は後の深安郡が中心で「八千足尼」と呼ばれた国造が治めていた。彼らの墓が神辺平野周辺に数百とある古墳である。以後、備後にどのような政治家や権力者が現れたか、時代を追って述べてみたい。

幻の紀氏一族

昭和37年から始まった明王院本堂の解体修理で驚くべき事実が発見された。本堂の梁に「紀貞経代々二世悉地成就、元応三年(1321)三月十四日」と記されてあったのだ。今まで全く知られていなかった古代の大豪族紀氏一族の活躍がこれで明らかにされた。更に発見は続いた、蔵王町の宮の前廃寺の発掘で「紀臣和古女」と刻まれた瓦が土中から現れた。宮の前廃寺は奈良時代の初め頃建立された寺院の跡だから、明王院本堂を再建した紀貞経は古代の紀氏の流れをくむ人物であることが確実となった。紀氏は「紀の国」今の和歌山県を本拠とした古代の海洋豪族である。大和朝廷が朝鮮半島に出兵した時代、彼等はその海軍部隊として大きな力を持っていた。福山沖の瀬戸内海は東西の潮がぶつかるところである。紀氏はそこに目を付けたに違いない。だが、その後の活躍は杳(よう)として知れない。彼らはどこに行ったのであろうか…。

安那豊吉売

平安時代前期の貞観十四年(八七二)八月、備後国司の報告に、時の大政官は喜色に溢れた。備後国安那郡(現深安郡)の人安那豊吉売が三つ子を出産し、無事育っている、というのだ。現代でもめったにないことだが、その頃の三つ子はそれこそ万に一つもない出来事だった。政府はこれを『瑞祥(ずいしょう)』ととった。中国では、為政者が善政を行なうと、天は『瑞祥』を下してこれを天下に知らしめるという思想があった。『白い雉』や『白い鹿』などがそれだ。備後でも天武天皇の時代、神石郡から『白雉』が献上され、目出度い事として天下に大赦したという記録がある。今回の三つ子も天が善政を称えて下されたものとして、さっそく天下に布告された。しかし、生まれた子が夭折したら一大事である。それは凶事の先触れ、政府の悪政を示すものと受け取られかねない。そこで時の大政官は備後国司に命じて、豊吉売に乳母一人を付け、三年間にわたって米三百束を養育料として与えた(日本三代実録)。

諸房大明神

ときおり、暇に任せて町を歩く。すると、不思議な史跡に出くわすことがある。引野町の諸房(室房とも書く)神社もそうだ。この神社は、引野の天神社の境内にある。何が不思議かというと、その祭神だ。『福山志料』という、福山藩の地誌をひもとくと、「櫛山ニアリ祭神クシ山ノ城主諸房卜云」とあって、今は団地に造成された串山城の城主が祭神だという。だが、これには異説がある。諸房は元慶年中(九世紀後半)の備後守であって、人々がその仁政をたたえて、ここに祭ったのだという。確かに備後国司としての諸房は実在の人物であって、元慶3年(879)の記録に「備後守従五位下藤原朝臣諸房」の名が見える。しかし、備後国司を神としてここに祭る理由が見当たらない。平安時代の国司は国府(備後の場合は現府中市元町)から出ることななど、ほとんどなかった。諸房の正体は一体何者なのであろうか。

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