2004年02月16日

司馬遼太郎氏と私(「この国のかたち」の誤記と訂正)

備陽史探訪:116号」より

坂井 邦典

平成十五年八月、東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行った。大阪駅より外廻り天王寺行きに乗り、鶴橋で近鉄線に乗換え河内永和(かわちえいわ)で下車した。鴨高田神社、長栄寺、彌栄神社などを見学してから記念館へ行った。市道より入ると右手に入館券自動販売機がある。入館料五百円。雑木と雑草の生い茂る庭に入ると、大きなガラス戸越しに書斎全体が見わたされる。

特注の鍵型の大きな机と背もたれの付いたイスが目についた。机の上には司馬氏が日常、生前に使用していた筆記用具、原稿を推敲するとき使う色鉛筆、メガネなどが、そのまま置いてある。部屋の壁面には一杯並んだ本棚がある。

書斎の様子を目に焼きつけてから、庭の小道をたどり、安藤忠雄氏が設計した特徴のあるコンクリート造の建物に入った。

まず壁一面に並んでいる本が日に飛び込んできた。二階建をぶち抜いた書庫の壁に高さ十一mの大書架が造りつけになっている。本の棚を数えると二十五段、さらにその上に十段もある。驚き×2。万巻の書がぎっしりと並んでいる様は、まさに汗牛充棟という形容がぴったりである。家の中にある本の数は自著と収集した本が玄関、廊下をふくめて総数四万余冊という。

書庫の西隅の天井に、二年前より「シミ」が出てきたが、司馬氏の横顔に似ていると話題になっているから、見るようにと係員が教えてくれた。言われてみれば、そのように見えるから不思議である。

次にホールで司馬氏の考えをまとめてあるといわれるテレビを約十五分間見た。二十二才の時、敗戦という激変を境に司馬氏の考えが変わったという。「竜馬がゆく」(幕末時代)、「坂の上の雲」(明治時代の戦略)、「菜の花の中」(高田屋嘉兵衛の生き方)の三つが司馬氏の入魂の作品ということであった。

最初の長編「竜馬がゆく」を書く時に、資料の本三千冊を一時に買って、本屋のおやじが前代未聞だと驚いた由。

「二十一世紀に生きる君たち」という色鉛筆で推敲のあとがついている直筆原稿が展示してあった。司馬氏が日本の若者が本を読まなくなり、このままでは日本が駄目になると将来をなげいていて、この本を書いたということである。入館記念に購入した。

司馬氏は平成八年二月十二日、七十二才で突然、腹部大動脈瘤破裂によって急逝されたのである。惜しい文豪を失ったものだ。もっと長生きをして沢山の小説を書いてほしかった。記念館内を約一時間見学し満足して出た。

前置きが長くなった。これからが本題である。

平成七年十二月一日発行(筆者註、本の発売日は一カ月位早い)の「文芸春秋」七十三巻第十七号に司馬遼太郎氏が「この国のかたち」シリーズの中で、「歴史のなかの海軍」という題で小論文が掲載されていた。

その内容に、「慶応三年四月二十三日夜、海援隊(筆者註、坂本竜馬が作った私設の貿易海運会社)の伊呂波丸が東航中、讃岐沖で西航してきた紀州藩汽船明光丸に衝突され沈没した。」と記載してある文章を読んだ。私はこの文の内容に納得がゆかず、「衝突したのは讃岐沖だが曳航の途中、鞆沖で沈んだのが事実です。その証拠に鞆の町に記念館を作り、海の砂の中に沈没して埋まったままの伊呂波丸の現場が復元してあり、かつ引き揚げた物品が展示してあります。さらに竜馬が紀州藩の家老と談判した家の部屋が、その当時のまま保存してあるから、是非調査研究に来て下さい。」と司馬氏に葉書を出したのである。

私は無名の一野人の言を日本を代表する大家が取り上げられる筈が無いとまったく期待していなかった。ところが司馬氏より返事が来たので、びっくりすると同時に感激したのである。

これだけでなく、この次が大切。次を読んで戴きたい。

司馬遼太郎氏直筆のはがき

司馬遼太郎氏直筆のはがき

司馬氏は前記の如く平成八年二月十二日に急死されたのである。

最近、司馬遼太郎全集第六十七巻の中を見たら、伊呂波丸は讃岐沖で西航してきた紀州藩汽船明光丸に衝突され、備後鞆沖で沈没した。と訂正してあるではないか。二度目の大感激だ。感動した。

私への返事の日付は平成七年十一月三十日であるから、その日より二ヶ月余日で死亡されたのである。従って私の指摘により、直ぐに訂正されたものと思われる。もしも遅れたら永久に正されることはなかったのである。

大人物は直ぐに手を打たれるのだ。これが凡人と違うところだと、今更ながら感心している次第である。

以上、私と司馬氏をめぐる夢のような物語である。