服部英雄氏 講演会「中世の合戦絵巻をどうよむか」開催!

備陽史探訪の会・創立35周年記念行事

備陽史探訪の会が発足して今年で35年目をむかえました。
この節目にあたり、2015年9月26日(土)に備陽史探訪の会・創立35周年記念行事を行いました。 

第一部として、記念講演会を広島県立博物館地下講堂にて開催致しました。

講師に服部英雄先生(九州大学名誉教授)を迎え「中世の合戦絵巻をどうよむか」と言う内容で講演をしていただきました。

参加者は約140名。大勢のご参加ありがとうございます。

 

大講堂受付 広島県立博物館

受付も準備完了。来訪者を待つばかり。

 

田口会長のあいさつ

田口会長のあいさつから開始。

 

服部英雄先生の講演 講演会場の様子

服部先生の講演。
蒙古襲来絵詞を中心とした絵巻の読み方を主題に、蒙古襲来の様子や「神風」の実態など、わかりやすく興味深く中身の濃いものでした。
今後関連の書物を出版されるそうですので、期待しております。

以下、行事案内に載せきれなかった服部先生による講演内容の解説を掲載します。

絵巻物は絵と詞書から成っている。絵と詞書は必ずしも逐一対応しているわけではない。伝記的な内容を持つ絵巻物の場合、絵が語る内容を詞書ではなく、主人公本人が語って説明することもあったのではないか。竹崎季長絵詞(蒙古襲来絵詞)をそうした観点から読み直してみたい。

1 文永十一年、鳥飼浜の合戦にて、当初竹崎季長は有利で自身で射た矢にて敵、蒙古兵の目を射貫いていた(そのことは矢羽の模様からわかる)。ところが眼前わずか一馬身ほどの距離に突然現れた、あらての三人から至近距離にて狙われた。これほど距離が短ければ、よほどの下手でなければ外すことはない。まさしく絶体絶命!どうなったのか。絵詞には何も書かれていない。そこは季長自身が説明したようだ。

2 弘安四年合戦にて六月八日、博多湾内能古島沖海戦と推定できる絵がある。ただし右側の絵が残されていなかったから、これまでは注目されてこなかった。左側の蒙古船が狙うのは、もちろん竹崎季長である。彼らの乗る船は低く不利で、風もまた蒙古には追い風、日本には逆風であった。季長絶体絶命。ではどうなったのか。ここも絵詞に説明はない。同様に季長本人が説明したのだろう。

3 嵐で日本船も沈んでしまい、手柄をあげようとする季長は、味方をもだましながら敵船に接近、乗り込みに成功した。博多湾・志賀島沖合戦である。季長は首尾よく二人の敵の首を得ることに成功しつつあったが、右腕に敵の矢が的中してしまった。このときは兜もかぶっておらず、代用の脛当てをしていたが、それも落ちてしまった。横には敵船が至近の距離にいて、五,六メートルの距離から、七人の敵兵が日本船を攻撃していた。季長危うし。この距離で外す敵兵はいない。ところが異変が起きた。異臭がして目も開けられないような何かの異物を友軍が投擲した。間一髪、季長は危険を脱したが、その詳細は絵巻・詞書にはない。これも季長が読者に説明したのではあるまいか。

こうした観点にたてば、竹崎季長絵詞(蒙古襲来絵詞)を、よりたのしく読み直すことができる。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/12/IMG_0808-1024x683.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2015/12/IMG_0808-150x100.jpgSera活動報告備陽史探訪の会・創立35周年記念行事 備陽史探訪の会が発足して今年で35年目をむかえました。 この節目にあたり、2015年9月26日(土)に備陽史探訪の会・創立35周年記念行事を行いました。  第一部として、記念講演会を広島県立博物館地下講堂にて開催致しました。 講師に服部英雄先生(九州大学名誉教授)を迎え「中世の合戦絵巻をどうよむか」と言う内容で講演をしていただきました。 参加者は約140名。大勢のご参加ありがとうございます。   受付も準備完了。来訪者を待つばかり。   田口会長のあいさつから開始。   服部先生の講演。 蒙古襲来絵詞を中心とした絵巻の読み方を主題に、蒙古襲来の様子や「神風」の実態など、わかりやすく興味深く中身の濃いものでした。 今後関連の書物を出版されるそうですので、期待しております。 以下、行事案内に載せきれなかった服部先生による講演内容の解説を掲載します。 絵巻物は絵と詞書から成っている。絵と詞書は必ずしも逐一対応しているわけではない。伝記的な内容を持つ絵巻物の場合、絵が語る内容を詞書ではなく、主人公本人が語って説明することもあったのではないか。竹崎季長絵詞(蒙古襲来絵詞)をそうした観点から読み直してみたい。 1 文永十一年、鳥飼浜の合戦にて、当初竹崎季長は有利で自身で射た矢にて敵、蒙古兵の目を射貫いていた(そのことは矢羽の模様からわかる)。ところが眼前わずか一馬身ほどの距離に突然現れた、あらての三人から至近距離にて狙われた。これほど距離が短ければ、よほどの下手でなければ外すことはない。まさしく絶体絶命!どうなったのか。絵詞には何も書かれていない。そこは季長自身が説明したようだ。 2 弘安四年合戦にて六月八日、博多湾内能古島沖海戦と推定できる絵がある。ただし右側の絵が残されていなかったから、これまでは注目されてこなかった。左側の蒙古船が狙うのは、もちろん竹崎季長である。彼らの乗る船は低く不利で、風もまた蒙古には追い風、日本には逆風であった。季長絶体絶命。ではどうなったのか。ここも絵詞に説明はない。同様に季長本人が説明したのだろう。 3 嵐で日本船も沈んでしまい、手柄をあげようとする季長は、味方をもだましながら敵船に接近、乗り込みに成功した。博多湾・志賀島沖合戦である。季長は首尾よく二人の敵の首を得ることに成功しつつあったが、右腕に敵の矢が的中してしまった。このときは兜もかぶっておらず、代用の脛当てをしていたが、それも落ちてしまった。横には敵船が至近の距離にいて、五,六メートルの距離から、七人の敵兵が日本船を攻撃していた。季長危うし。この距離で外す敵兵はいない。ところが異変が起きた。異臭がして目も開けられないような何かの異物を友軍が投擲した。間一髪、季長は危険を脱したが、その詳細は絵巻・詞書にはない。これも季長が読者に説明したのではあるまいか。 こうした観点にたてば、竹崎季長絵詞(蒙古襲来絵詞)を、よりたのしく読み直すことができる。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い